昭和五十二年十二月二十一日 朝の御理解
御理解 第六十四節 「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路 のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」
昨日、朝のお食事の時に、高橋さんと話したことでしたけど、阿倍野の先生のお話をここ四五日前から二冊頂いた。そしてそれを読ませて頂くと、五十年祭の時の記念誌も、五十五年の、今年はあちらの五十五年の記念祭だったんですが、私どもがあちらへ行ってちょうどまる五年に、いわばなるわけですね。もうお話させていただいても、同じことを話しておられるということ。もう、幾つかの、教祖の御教えの幾つかに、ま、限定されておるかのように、同じ御教えを引用しておられるということ。取り分け、あの「奢りがましいことをすな」と、「細い道でも踏み広げて通るのが繁盛じゃ」というような御教えが、あの御教えなんか、もう繰り返し繰り返し出てくるんです。結局、ご自分がそういう生き方を、ずうっとなさってきておるわけですね。
まあ、現在、もうほんとの意味において、真善美、輝かんばかりのお広前ですね、あちらの御教会というのは。そりゃあもう素晴らしいです。そりゃあ何て言うでしょうか、あのあちらがお乗りになる車は、もうとにかく今の一番高いという外車の、そういうのが二台あるそうです。こちらの修行生が、去年、あちらにお引き寄せいただきたいと言うて、あちらにお参りしたいと言うて、電話をかけたばっかりで、その外車二台でお迎えに来ていただいた。もう、恐れ入ってしまったと言っておりましたが。なら、そういう、それこそ踏み広げて踏み広げてお通りになるという行き方ですね。
先日からも、お孫さんが、「おばあちゃま、筆入れを買ってきた」と言われる。で、「どういう筆入れを買ってきたの」ちゅうて見せたら、それは立派な筆入れであった。ね、「今までのは?」ちたら、「今までのは、僕が、自分で手作りの筆入れだから」と言うてそれを持ってみえた。「そりゃあ、これはあんたの作った手作りのほうがよっぽどいいよ」と(笑)。「これは返しておいで」ちて返しに遣られたそうです。ね、そういう、ならお孫さんにでも教育をなさっておられるわけです。それでいて踏み広げて、現在、ま、人間としてこれよりの贅沢はなかろうといったような、ならたたずまいというか、お部屋なんかでも、それこそあの勿体ない、自分で勿体ない勿体ないとか言っておられる。まあ、そこまででも出られると言やあ、お抱えの運転手がちゃんと、その最高の自動車で送り迎えをするといったようなおかげを受けておられる。もう、その結局、何十年なんね、五十何年間、五十五年が、今年、記念祭ですから、その間に、もういよいよこの御教えに徹して来られたわけです。
そしてそのある時に、若先生がまだ小学生の時に、デパートにおいでられた。もうそりゃあ素晴らしい傘が、べらぼうな値段が付いた傘が展示してあった、ね。で、その時に若先生に教えておられることが、「こういう傘でも、神様がおかげを頂くとささしてもらえれれるようになるけれどもね、〈とても〉手も届かなんようなものを自分が求めてはなりませんよ」と教えておられる。で、ここんとこは、私の言うことといつも一致しますよね。贅沢ということは、その自分に適わないものを、もうそれこそ踏みつぎまで持ってきて取ろうとするのが贅沢であって、ね、もうそれこそ天地金乃神様が人間を幸せにせにゃおかん、もう有頂天にならんばかりにもおかげを頂かせたいというような、働きがあっておるということはです、んならどういう素晴らしい宝石でも、どういう素晴らしい、その何十万も何百万もするような着物ですらあるようなもんですから、それはやはり人間に着せたいばっかりです。だからそういうものが、ありがたく着れれるということがおかげであって、それはその人にとっては贅沢ではない。ああ、借金しもって、あちらにこちらに借金持っとって、その良かもんば着たいとか、付けたいという。これは、もういよいよもって屑の屑と言っとられるですね。これでは、もうおかげが頂けれるはずがないです。いわゆる分相応ということ。ね。
ま、今日の話の、まあちょっと、お話が芯にそれましたけれども。昨日、高橋さんとお話ししたことはです、もう教祖の御教えの幾つかを徹底して行じぬいておられるということです。そういう意味で合楽でも、この最近気付かせて頂くことは、こうして毎朝、神ながらの御理解を頂いておりますけれども、大概(笑)同じでしょうが、いつも。何十年間、しかも。それを、ならあらゆる角度からも深く広く、あのお説きいただくというだけであって、もう、ほんとに例えば、御理解二節ですかね、「信心すれば、誰でもお徳が受けられる」という、あの御理解やら、御理解三節やら、ね、「生神金光大神、此方ばかりが生神ではない」という、まあ生神を目指せという御理解やら、例えばなら今日の六十四節なんかでもそうですね。「身しのぎをするようになれ」「とにかくお徳を受けよ」とにかく合楽の場合は、もうお徳を受けさせたいというお話ばーっかりだということですね、いつも。だからどうでも合楽で、ならこれだけ沢山の教典、あの中にいろいろありますけども、とりわけこの御理解がいいというところに、これだけ気付かせていただいて、その繰り返し繰り返し説いてくださる、その御理解をです、ね、御神意を体して、一つ悟り分からしてもろうて、その行き方にならなければいけないということです。ね。神様が、合楽の信者信奉者にどうでもお徳を受けさせたい、ですからお徳を受けるためには、いわば幾つかの限定されたように、御理解、しかもお徳を受ける、頂ける、ね、昨日の御理解でも「雨が降るから、風が吹くから、えらいと思うてはならん。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ」と言うて、徳を受ける修行を説かれておる。ね。
いかに有難そうに、大祓いやら心経やらをあげても、ね、真がなかったら神に嘘を言うも同然じゃという風に〈説いておられます〉。ね、いかに「金光様ちゃ、有難かですね。もう、合楽ちゃ、ほんに有難かとこで、もうこげな有難いとこに御神縁を頂いて、有難い、有難い」と言うておるだけならば、それは神に嘘を言うも同然じゃと、昨日おっしゃった御理解でした。ほんとに有難いと思うとるんなら、有難いだけの、いうならば信心ができんじゃないか。ほんとに有難いと思うとるんなら、有難いだけの、天地に対する還元がなされなければならない。もう、ここに徳を受ける極まった御教えです。徳を受ける人は、もうこの還元が素晴らしいです。もう、天地に還元するですから、次にひとりでにものができるおかげになってこんはずがないです。それが徳なんです。
ね、ですからこれは私どもは、その高橋さんの時の話で、これはいよいよもって合楽の場合は、そのまあ、お徳を受けるということだけをしきりに説かれるから、ならお徳を受けさせて頂くための姿勢作りというものをしなければいけませんよと。そういう意味で、こっから出た、あの教典感話というのは、まあ合楽では希少価値があるわけです。あれはもう、ね、一回、一条一条、一節一節、あの説いたものですからね。ずーっと順を追うて。だから、合楽としては、もう希少価値のある、毎日には、例えば頂き、だからこれをずーっと見てみると、まあだ頂いてない、ね、三十年間のあいだに頂いてないような御教えすらあるのじゃないかと思うくらい。もう、幾つかのいわゆる限定されたような御教えをです、これは私もです、こう開かしてもろうて、なら今日は六十四節を、こう頂くから、この御理解はめったにないけん、このほうば説いたらよかろうごたち思うことがいつもあるです。けれども神様は、もうそれと、例えば昨日説いとっても、それとこう頂くようなことがありましょうが、二日も四日も続くようなことが。いかに神様の心がね、こりゃ合楽の信奉者にはどうでもお徳を受けさせたい、それほどしに合楽というところには、もう大変な期待があるなということを、今日は、私のそもそもの信心の頃、心から信心過程というものをじーっと自分で思うてみたんですけれども、確かに合楽にはね、そういう願いがかけられておるです。ね。ここへ百人の人が集まっておるなら、その百人の人を一騎当千の信者に育てたいという願いが、もうひしひし今日は感じるんです。ね、だからそのことを通してお徳を受ける、いうなら修行をしなけりゃいけんです。それに例えば、そげなことではおかげが逃げてゆく、そげなこと言っちゃお徳が受けられんといったような行き方をしておる人が沢山あるということです。いうならば、ね、眼に見えるところばかりを大切にして、眼に見えないところをおろそかにしておる。もう、これじゃ絶対お徳を受けられんです。ね。自分の顔だけを作る。ね、人の眼ばっかりを気にする。ね。そげなこって、あんた合楽参って来てどうすんの、何になんのちゃ、そげなことで合楽で修行して何になるの、と言いたいような人達が沢山おるということです。結局、ならそういう人達は、ま、問題は、眼の前のおかげだけさえ、その時その時、頂いていきゃあ、その時その時が、楽でありさえすりゃ良かと思うとるです。こりゃもう徹底して神様の御神意がそこに動いておるなと、私は、今日は、昨日今日、感じさしていただいておるですが、ね、合楽の方達は、一つ、あのおかげを受けるということ〈より〉も、お徳を受けるということにです、焦点を置かなければいけません。そういう姿勢作りをしなければならない。ね。
「此方は参ってたずねる所がなかった。」合楽では、ならどういう行き方になったらお徳を受けるかということを、繰り返し繰り返し説いておられるのですから、私ども、お徳を受けたいと本気で思うたら、お徳を受けるこつは、お徳を受けるためにはこのようなというところを、まあ、説いて説き明かさしていただいておるように思うんです。ですから、本気でお徳を受けるためには、いよいよ形よりも影のところ、ね、外面よりも内面をです、いよいよ本気に見極めさしてもらう信心、ね、ここには、参ってたずね、徳を受けたいと思うたらお徳を受ける、いうならば手立て手掛かりというものをです、ね、それこそ噛んで含める様に、ね、教えていただいておるということが有難い。もう、皆が、いうなら徳を受けて身しのぎがでけるようおかげを頂く。ね。いうならば、これは教団で言われることですけれども、あんまり散漫な感じですけれども、合楽では、総生神を目指しておりますと言えれる信心を頂かなにゃいかんです。ね。
私は、不思議で不思議でたまらんことがあるんです、お届けをさしていただきながら。それはね、ま、例えば例を申しますと、久留米から中村さんという、ね、あのお花やら着付けやらの先生をしておられる、参りも毎日さしてます。もう、ほんとにおかげ頂かれるです。それで娘が、もう一年ぐらい、付いてずーっと日参して来ました。この娘のことです。ある難しい何か試験を受けたい、もう来る日も来る日も、何々々の試験がどうぞ合格しますようにという、もうこのお願いばっかりを繰り返し繰り返し言うんです。この外のことは何にも言わんです。だから私は、もうこの人のお取次ぎをさしていただく時に、もしこの人が、なら試験に受からなかったら、おそらくふさッと信心止めてしまうでしょうから、ね、その例えば神様は、あなたがほんとに幸せになることのためにしか働きなさらんですよと、だからその試験が通る通らんは、もう神様にお任せして、本気で信心の稽古をしなさいよというような御理解を説いたら、さぞよかろうと思うんですけれども、絶対説かしなさらなかったです。もう、本人が願うことばーっかりです。いうなら、それも何かというと、外のことは願わんです。○○の○○の試験がどうぞ合格いたしますように、とこう言うのです。ね、それで、なら御理解も頂かんし、ならここで私が神様に、もうそれこそ何回お願いしたか分からんです。ね。おかげで通らなかったんです。それけん、それっきりピシャッと止めました。「お母さんがどげん言いたっちゃ、もう神様が自分の言うことを聞かせられんけん、私は参らん」とこう言うわけです、ね。ただおかげを頂かせるだけの手段なら、幾らもあるわけです。私は、このことから考えてもですね、あの神様がそういうのは、もう問題にしなさらんという、この人一人の上から、私は感じたですね。だからもう止めるなら、もう初めから止めてもよい。初めから通らんことはわかっとっとじゃけんで、ここにいうなら因縁を含めてです、「いうなら通らんよと、けれどもこうやってあんたが試験のために一生懸命参って来とるうちに信心を身につけたら、こりゃあもう、あんたが嫁行った時にどげん幸せにするかわからん、いや、一生涯の中にこの信心がどのくらい有難いことになるかわからん」と、説いてあげたがいいでしょうが、ね。ところが神様は、絶対、説くなでしたよ。これはいわば、合楽でいかにおかげをやろうとしとるなさるとじゃない、お徳をやろう、だからもう以外のはもう振り落とさしてよか、という感じなんです。ですから、お互いの場合はおかげを頂きつつ、お徳を頂きつつ、という行き方をしなきゃいけんのです。それにあの、いわばお徳を受ける、受けるための姿勢というものがです、(笑)もう全然崩れておる人が、もう沢山やっぱあることです。ね。お徳を頂いて行くという行き方です。ね。眼に見えるところより、眼に見えないところを大切にしな〈ければならない〉。人が知らんと思うたら、もうほんとに〈ろくそうなこつ〉、これではお徳の受けられようはずがありません。
ほんとにこれだけ、いうならば合楽では、ね、いうなら御理解が命のように説かれる。その、なら御理解がこんなに沢山ありますけれども、その中の、もう限定されたような御理解だけがいつも繰り返し、ここで頂けておるということは、いかに神様が、合楽の信者氏子にはです、どうでもお徳を受けさせたいという働きを感じるわけ。
そこで、なら昨日の御理解を引用すると「雨が降るから、風が吹くから、いうならばえらいと思うてはならん」。合楽で、いわゆる表行を廃して心行一筋というのは、もう心行一筋で行くなら、もう絶対お徳を受けるんです。いわば辛抱のでけんところが、心行がでけとりゃでけるです。ね、そしてその辛抱が辛抱せんでも済むほどしの、信心辛抱の徳になってくるのです、ね。心行とは、不平不足を言うてはならん。ね、暑い寒いは言うてはならん。ね、いうならば自然に暑い寒い、自然の働きに不足を言うてはならん、合掌して頂かにゃならん、いわゆる成行きを尊ばにゃならんということなんです。ね、だからもう本気で心行に取り組んだらです、ね、いうなら姿勢が自ずからでけてくるのです。
合楽教会にご縁を頂いたということは、ほんとに日々御神徳を頂かせていただく手立てが、あの様に、いうならば解明されていっておる。あの様に、わからん者にでも分かりやすう説いていただいておる、ということが有難いということにならなければです、ね、姿勢もできません。ね。ただ目先目先のおかげを頂いていけば、それは、なら誤魔化し半分でも、行いは悪くても、結構おかげは受けていきます。ね、そういう行き方でお徳を受けようと、かたやのほうに思いを置いとっても、これではお徳の受けられるはずがありません。とにかく合楽の場合は、もういよいよをもってです、ね、身しのぎの、身に徳を受けて身しのぎのでけるような、おかげを皆に神様が求めておいでられる、ね。合楽が打って一丸、いうならそういうお徳を受けた人で固まって行く時にです、で行かなければです、ね、合楽では、かくおかげを頂いておるとどういう素晴らしい教えを振り回しても、ね、やはり人は付いてこない。ここでは、なら私自体がおかげを頂かなければ人が付いてこないように、合楽自体が、やはりおかげを頂かなければ外の者でも付いてこない。ね、そういう意味で私どもは、一つ大きな一つの使命を感じさしてもらい、ね、使命感に満ちた信心生活、お徳を受けていけれる行き方を選ばして頂きながら、信心を進めていかなければならん。これはもう話じゃない、ほんとに神様の心なんだ。それを昨日、とりわけそれを感じさせていただいて、まあ、高橋さんにそんなことを話したことです。それは、今持っておる問題は複雑であり、難儀であり、困ることでもありましょうけれども、それは徳の素になるんだという頂き方になったら、もう途端に心が活き活きとしてくるはずです。途端にその難儀そのものが拝まずにはおれんということにもなってくるばずです。どうぞ。